一森育郎 −回想−
1968年3月末に初めての海外、パリに着いて憧れの華の都パリ!
インテリア・デザインなるのものヨーロッパの本物の生活を見たい、との単なるミーハー的な憧れで、何の野心も将来の夢も計画もないまま観光気分でやって来た。今思うと恥ずかしいけど。。。。
2、3年滞在して帰ろう、との予定だったのでとりあえずは4月からツールという町の語学学校で勉強することにした。パリ暮らしが始まったのは秋からで、いよいよ腰を落ちつけての生活スタート。まだ20才前半の何でも吸収できる年頃。何を見ても目新しく、目にするものすべてに感激の日々。
今思えば、この頃の経験、知り合った人達から後の自分のライフ・スタイルに大きく影響された気がする。それ以前からも沢山の人と知り合う機会も多く、次々と面識が増えては来ていたが、なんせ誰も知らない土地での事、何かのきっかけから新しいことが始まる。最初のきっかけは、モンパルナス散歩時、偶然通りかかったショップのインド製シルクのスカーフの色が気に入って、買いに入った。おしゃれに超敏感だった年代、時代はまさにヒッピー。ぴったりのスカーフで値段も手頃で買うことが出来た。
年配のオーナーのマダムが話好きで、若い日本人がまだ珍しいからいろいろ質問されて、すっかり気に入られたようで(まだ18才ぐらいに見られていた)今度食事に来なさい、と言われて自分の住所を渡して(電話なんてまだない時代)別れた。数日後、手紙が来て電話入れたら食事の招待だった。
そこで同時に呼ばれていて知り合った中に、サンジェルマンで抽象作品を扱うギャラリー・オーナーであり、隔月刊誌Cimaiseも出版しているJean Robert Arnaud、オスロの美術館での展覧会オープニング終えてパリに戻って来たばかりというアメリカ人画家John F. Koeningなども同席で、その後交友関係が続いた。頻繁にあるギャラリーでのオープニング・パーティーやホーム・パーティーに呼ばれたりで、活気あった1970年代はほとんど年上ばかりだが、すでに名前の売れたアーティスト達と多く知り合う機会があった。
スペイン人の画家Luis Feito, 佐藤亜土、ハンガリア人の女流彫刻科Marta Pan,旦那さんの建築家Andre Wogenscky、彼は大学などの公共建築にも多くの作品を残し、当時の法律で彫刻など同時に建築物と一緒に残す必要もあって奥さんのMarta Panの作品も、今もセーヌ岸やパリ大学構内で見ることができる。などは当時のGalerie Atnaudでの人気アーティスト達だ。画家仲間からは、抽象画家としては日本人で美術館に作品が観られるような作家、Key Satoや田淵安一さんとも親しくして頂き、自宅にも何度か食事に呼ばれたりした。Jean Robert Arnaudは4人で一軒家をフォンテンブローのあたりに借りていて週末になるとそこで過ごしていた。コクトーの住んでいた村からさほど遠くなく、何度か呼ばれて行ったが、やはり近辺に住む、あるいは週末に来るアーティスト達とも田舎でも交友があって、そこでも色んな人たちと知り合った。
記憶に残っているのは、古典劇を演じるコメディー・フランセーズ劇場のコスチュームを担当していたチリ出身のデザイナー。ルーブル美術館の向かい、パリ左岸のセーヌ岸に住んでいてその後食事に呼ばれて行った時は、見晴らしのすばらしさに感激した記憶がある。田舎での近隣同士(2-30分ぐらいのところ)の付き合いで、ある時一緒に昼食に行って驚いたのは、日本でフランス雑誌、パリ・マッチで見た時衝撃受けた作品と、作家本人、その本人の家で会えたこと。Fancois Xavier Lalanneと奥さんのClaude Lalanne ともにメタルを扱う彫刻家。旦那さんは動物中心の彫刻家で、奥さんはシュールな感性の彫刻。有名なのはキャベツの頭の女性像とか、指を鋳造して銅の丸線の先につけたベルトや、花から型を取って鋳造したネックレスなどアクセサリーも数多く残っている。のちにサンローランのオートクチュールで、モデルの胸を型取りしてブロンズで作り、サンローランのドレスの上の部分に使われたのは、世界中で発表されているはず。彼女自身の感性の彫刻アクセサリーだが、実際アクセサリーとして使える物で、その頃大変共鳴受けた作家さん。旦那さんは、知り合った頃はサンジェルマンのギャラリーの展覧会で大好評だった大きなサイのメタル彫刻だが、蓋を開けるとバーになる、という家具でもある。当時自分もオブジェで同時に用途のあるもの。。。とかに興味あったので、このカップルには何かと影響受けた。彼らの住まいに行った時、パリ・マッチで紹介されたそのまま、まだ残してあったので、さらにショックを受けた。日本で知らぬ間に見た写真の光景が、そのまま現れたので!!その上、作家、そして弟のその写真撮ったカメラマンも一緒で!!!それは、羊そのものを作って(毛皮付きの)ストールとして使い、本来牧場にいる羊がなんと古い農家の家の中にいる光景。何頭もの羊が屋内で、まるで牧場にいるような光景で、外から室内の羊たちを写したものだった。
1968年、初めてパリに着いてから70年台初め頃までは、毎日が興奮する出来事の繰り返しで、パリはとにかくすごい所。夢の夢の出来事が現実としてここには存在する。自分もそれに関わっているという興奮の連続だった。芸術家たちの普段の生活様式、自由に好き勝手に人生を謳歌する様を、その頃すでに目の当たりにして、これがフランスの良さ!とますますフランスに傾倒する日々だった。田舎に来る人たちも、高級乗用車でなくみんなミニクーパーやシトロエンDeux Chevauxといった気楽な車に乗っていた。食事も寄せ集めで釜の飯を分かち合う的な気楽なもので、質素ながら豊かな経験のできた青春になった。
別のグループになるが、俳優のHoward Vernonと知り合う機会があった。スイス人だが長年フランスに住んでいて(当時50歳ぐらい?)ドイツ語、英語、スペイン語、フランス語を話し、いくつかの国でも映画出演していたようだが一番の当たり役はLe Silence de la Mer海の沈黙。ジャン・ピエール メルヴィルの長編処女作で今も名画と言われる映画だが、主人公のドイツ将校役に出演した(1949年作)彼からは、偶然再会したというアルゼンチン出身の女優だったPetraを紹介された。フランス人実業家と結婚していて7区のお屋敷(館)に住む男爵夫人に収まっていた。旦那さんは世界中駆け巡る実業家。退屈しのぎに奥さんは人を集めては自宅でパーティーしていた。知り合った当時は60歳過ぎていたようだが、写真家に撮ってもらったビキニ姿の写真が飾られていたがまだ綺麗な体をして若さを十分保っていた。我々のような20台から50台ぐらいまで、様々な世界の人たちが集い、時には乱痴気騒ぎして、パリの金持ちの人々の退屈しのぎの退廃的な暮らしをしていた。そこで知り合ったハンガリー出身でモナコに住民票を持っている という女性Idaと知り合い、彼女は樹脂を、私はメタル部分を受け持って共同作の噴水を作り、ボーザール(芸術大学)の前にある画廊で展覧会したのが、自分にとって初めての作品展となった。(1974年ごろ?)この時期に多くの人と知り合ったが、今思えば記憶に残る人は少ない。上っ面の付き合いだった。Petraは当時銀のアクセリーのみ作っていたが、ネックレスを丸線で作って欲しいと、初めて金のジュエリー、オーダーをくれた人だ。
どのルートか定かでないが、真面目な紹介で、当時ボーザールでも教鞭取っていた教授、Gilbert Poillerat氏と知り合い、彼からマダムLola Prusacを紹介された。モダンアート美術館だか装飾美術館だかで、Gilbert Poilleratの作品、鉄でできたテーブルを見たことがあるが、初めて訪れた彼のアパートには、玄関からサロンに入ると二枚のアクリル板を壁に間仕切り状にしてあり、2枚の板にはバッチリと日本刀のツバを挟んで、前からも後ろからも見えるようなっていた。日本でもこんな大量のツバを見たことなかったのに、パリでフランス人の家で!!と驚いた記憶がある。
Lola Prusacは手織りのウール地を使ってシャネルスーツタイプの洋服をオーダーメイドする店で、フォーブール・サント・ノーレの店内には、個性的なアクセサリーが並んでいた。パリで初めて目にする創造性の高いオリジナル・アクセサリー!首尾よく話が進み、好きな石を持って行って好きなもの作って、また戻ってこい、と言われた。いきなり信用して、石を与えてくれた彼女の器量はやはり只者ではなかったのだろう。
パリに店をオープン(1977年5月)する前だったので多分1975年ごろ、日本人デザイナーで知っている限りは初めてパリでオートクチュールのコレクション発表したのが、水野正夫さんだった。サントノーレのアパートでプライベートなものだったが、多分当時Galerie Arnaudでデビューして成功した画家、佐藤亜土さんからの紹介で、アクセサリーを担当することになった。まだシルバーの一点ものしか作ってなかったが大胆な大きなもの、ネックレス中心にベルトなども作った。その時のフランス人カメラマンから頼まれて、のちにモデルさんにつけた写真を撮るのに使ってくれた。初めてプロの写真家に撮ってもらったアクセサリーの写真になる。その後、週刊サンケイのパリに住む若者日本人インタビュー記事、グラビアでの記事が出た折にも、この時の黒人モデルの写真も、使用されたものがある。その頃テレビの石鹸のコマーシャルに出ていた売れっ子モデルだった。
1977年5月25日、11 Rue des Grands Augustins, パリ6区カルチエラタンにオープンした。(2016年4月15日閉店)
シルバー、ゴールドの一点ものジュエリーでスタートし、自分で使わない壁面を利用して、若いアーティストに提供し定期的に彼らの展覧会を開いた。壁面用の絵画、デッサン、水彩画、プリント、エッチングなどに小さなオブジェ、彫刻まで展示した。毎年春一番は<Winter has gone>のタイトルの20人のグループ展で、各自2点ずつ同じ額に入る小品を展示したが、当時すでに名前の知られていた前述したアーティスト達も、嫌がらず若者に混じって展示してくれた。
1980年始め、1983年頃からギャラリー風の店をアクセサリー店としてやり変え、ファッション・アクセサリーの制作を始めた。とはいえ、材料、パーツなど全く入手法も知らず、今のようにネットなどもなく四苦八苦してあっちこっち歩き回り徐々に見つけて行った。パーツ類は量で買う必要があるので、それまでのように一点物ではやって行けない、と徐々に量産体制に。そのためには自分の店のみでは制限があるので、世界中からバイヤーが集まるサロンに出展することになった。
当時パリでは面白いと思うアクセサリーはまだなかった。どれもこれも当たり前のシャネル風のチェーンやビーズ、パールをつないだもので、Lola Prusacで見たようなクリエイティブなものは一点物でアーティストが作るもののみで、同時にそれらを売る店もなかった。展示会ではどこもみんな似たり寄ったりのものを並べていたが、せいぜいパーツが少し違う程度の物ばかりが、ところ狭しと並んでいる。まだ一軒の店も知らない状態で、こんな多くのメーカーと太刀打ちしていくには?第一の課題が決まった。他のどこもやってないオリジナルのものを作り、気にいる人を探すより仕方ない。とはいえ、パーツ購入に仕入れ先を知らない、という限度があったので最初に思いついたのが、ここでは見ることのない日本の素材。KENZOさんが今や人気のデザイナーで日本ブームもあったので、日本から千代紙を送ってもらい、Papier macheの方法で紙を貼って形を作って、最終的に千代紙で仕上げたものを一つのパーツとしてネックレスやイヤリングを中心に作り展示会に出した。
物珍しさから、ヨーロッパのバイヤー、雑誌などが興味を持ってくれた。でも、それだけで今後長くはやって行けないので、展示会場で知り合ったメーカーたちから押し型メタルパーツなどの問屋、アトリエを教えてもらい、メタル物中心へと方向が決まった。メタルの押し型で取った物や、Swarovskiの石は、所詮誰でも同じものが買えるもの。展示会でその中で他と違う味を出すには、如何に?が新しい課題となった。買ってきたメタルや石をつけるだけのものが氾濫する中、IKUOではパーツをいくつか同時に合わせて使ったり、買ってきたパーツに手を加えて別のイメージ加工したものを使ったり、石留めも普通とは違う止め方を考えたり、とにかく一味違ったものつくりに絶えず務めた。アクセサリー分野で、展示会に出し始めて2、3年後から若いデザイナーがちらほら出てきて、やはりオリジナルなものを作って並べていた。なんとなく一つのブームのようになり、アパレルでも同時に新しい若手、当時はパリ中央市場のあったLes Hallesを取り壊し新しくファッション界隈としてできた頃だったので、展示会場にも若手達のブースをLes Hallesグループとして、そこにまとまって入り、他のメーカーとは違う若い息吹会場となり活気があった。この頃からアメリカ、ロンドンなどのデパートのバイヤーが大勢買い付けに来た。実際には展示会場へは、パリオフィスの人たちが下見に来てその後、本国からバイヤー達が来る前に、目をつけたメーカー達とアポを取って、オフィスにこちらから出向いてオーダーをいただく。
1980年代はアクセサリーがよく売れた時代で、ピリオッドによっては、大きければ売れた時期、黒い仕上げなら売れた時期、などメタリックなもの、または樹脂などでも大きくメタリック調に金、銀メッキ仕上げしたものが売れる時期があった。その後、光る石が売れた時期も長らく続いて、Swarovskiの石が間に合わずミラノやドイツまで買いに行ったこともあった。この時期からフランスでもアクセサリー店も増えて、販売は大きく伸びた。
同時に海外からのバイヤー達、エージェント契約、なども増えて当時7カ国に輸出していた。展示会出展は1990年で終えたが、契約していたエージェント達、または自分で参加も含めて、イギリス、ドイツ、イタリア、アメリカ、デンマークなどなんども足を運んだ。
同時に2000年初めごろまでのこの時期は、ファッション・ショーのアクセサリー担当、及びアパレル・メーカーのアクセサリー制作、ライセンス契約、など相当数のデザインを手がけ、メタルのみならずシルバー、ゴールド・一点物ジュエリーや、樹脂、アクリルなどの素材のアクセサリーと、領域にとらわれず、自分で製作できないものはイタリア(シルバー量産)、フィリピン(アクリル)、タイ(シルバー量産)などデザインと原型を渡して、海外でも製作した。原材料となるメタルパーツは毎回自分で作る原型を型取りして、量産するが、ガラスや樹脂、アクリルによる石に関しても、自分で原型作ってオリジナルのパーツとして使えるよう、ほかでは手に入らない全て自分で作ったもので、100パーセント、オリジナル・アクセサリーを目指した。
若いアクセサリー作り始めた頃は、とにかく見たことのないもの、変わったもの、を作っていきたい、と典型的な若者だったと思うが、年とともに、自分らしさを常に保ちたいが、なんでもない普通のもののようだが、その中に一味違うらしさ、を求めるようになってきた。ほとんどの人たちと同じような工程得ていると思うが、自分の変化が今思えば、そして今の若い人たちを見ていれば、微笑ましい。歳とるとはこういうことなんだ、と納得。
それでもいまだに飽きることなくアクセサリー作りを続けられる。楽しいと思える気持ちは昔も今も同じ。
矢張り自分は幸せものだと痛感しています。
育郎
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